君よクリエーターとしての覚悟はあるか
先週の土曜日は、知人のOさんと一緒に、
竹芝のタブロイドギャラリーでの展覧会
「コビケンは生きている」を見に行って参りました。
展覧会初日の、オープンしたての会場で、ゆったりと作品を拝見するのはとても楽しく、
また、アートに詳しいOさんの方から、
「コビケン(古美術研究旅行)は、この展覧会で紹介されている東京藝術大学だけでなく、
他の美大でも行っていますよ」といった興味深い解説もいろいろ聞けたので、
いつもに増して楽しいアート鑑賞の時間でした。
作品についてもいろいろな気づきがあったんですが、
Oさんと私が一番驚いたことは、
今回の展覧会で取り上げられている4人の作家
小谷元彦氏、鴻池朋子氏、会田誠氏、山口晃氏の中で、
鴻池氏が、一番年上の作家さんなのだ、ということです。
プロフィールを拝見していてその理由がわかったんですが、
鴻池氏は、1960年生まれの方のようなんですが、
芸大を卒業された後、37歳まで、玩具と雑貨の企画デザインのお仕事に携わっておられたとのこと。
これは、ファッション業界に置き換えて考えてみれば想像しやすいことだと思うんですが、
物凄いことだと思います。
通常、クリエーターは、若い時はとんがった感性を持っていて当たり前だと思うんですが、
企業の中だったり、マーケット寄りの仕事に携わっているうちに、
野生の研ぎすまされた感性を次第に失っていく・・・というパターンが多いと思います。
マーケット寄りの仕事をしながら、芸術家として、現実と空想の境界の立ち位置に屹立し、狂おしいばかりの創造への意欲を持ち続けるということが、どれだけ大変なことか、
アーティストに転身される時の勇気とエネルギーが、並々成らぬものであったであろうということも
想像に難くないですが、
それ以降、独自の個性に、年を重ねれば重ねるほど、磨きをかけていっておられる、
次々と佳作、大作を量産しておられる、
そのことの方が、更にもっと凄いと思います。
以前このブログで、私は、ファッションのクリエーターの皆様がアート志向に走っておられることに対して、
「みんなアッチの世界にいっちゃ駄目だ。アッチの世界は危ない」といったことを書いた記憶がございますが、
それは冗談でも何でもなくて、
アーティストとしての自立、世間に認められ食べていくということは、半端なく大変なことだと思うからです。
特に、「女流」作家である鴻池朋子氏には、男性の方々以上に、本当にいろいろなご苦労があったのではないかと、私は思うのです。
知名度があり、人気ギャラリーで取り扱われコレクターの収集対象になっているアーティストの方々の作風には、
いずれも、凛とした個性があり、「個」が確立されている、
昨日読んだ書籍『ファッションは語りはじめた』に登場しておられた
若いファッションデザイナーの方々と比較したときに、
正直、大きな落差を感じます。
ファッションデザイナーさん達の、「村」には、非常に日本的なウエットな、センチメンタルな空気感が漂っているというか、
「甘え」の構造が存在する、というのが、アートの世界との違いのような気がするんですよね。
まあ、アートの世界でも、大多数の「誰でもアーティスト」的な方々というのは、親御さんの脛をかじりながら美大芸大でプラプラしておられる甘えっ子なのかもしれませんが、
ファッション業界というのは不思議な世界で、
不良系(マルキュー系とかお兄系)の方が、ヤンママとして立派に生きている若い子から支持されていたりして、「若くして自立」している感があるんですが、
純文学を気取る方々の中に、個としての気概が感じられる方が少ないような気がいたします。
日本社会の縮図そのものなんでしょうが、どんなテイスト、ゾーンであっても、
それぞれのシマで、同質の人達が群れをなしている。
「群れ」が存在するから、そこに一種のネットワークビジネス的なファッションビジネスが成り立つ、ということで、万事丸く収まるのかもしれませんが、
たぶん多くのお客様は、年を重ねるごとに、青春の唄を必要としなくなってくる・・・。
そうなった時にも、自らはクリエーターとして、年を重ねるごとにクリエーションの凄みを増し、
何かの理由で自分と同じように年をとっても青春の唄を必要とする数少ない同士たる顧客や、
新しい若い顧客を惹き付けながら、
生き抜いていけるのか、
そういう「覚悟」を持ったデザイナーだけが、ディケイドを超え、国境を越えて、輝きを放ち続けるのではないかという気がしております。
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